経験に学ぶことの愚かさ

学芸員をして雑芸員と言われるのは、もちろん膨大な事務作業に追われてしまうことを指しているのだが、別の視点からは博物館業務に関連する分野の幅広さ、雑多さを指すと新たに定義しても面白い。

言うまでもなく博物館業務の幅広さはこれまでも指摘されてきたことなのだが、権威的であるかお勉強の場でしかなかった旧来の博物館よりも、権威の崩壊と価値観の多様化、財政的裏付けの消滅により生き残りを迫られている現在の博物館のほうが、運営においてより多くの創意工夫を発揮せざるを得ないような状況に追い込まれている。そういう後ろ向きな理由ではなくとも、使命感から新たな教育、展示、イベント技術の開発と実践を日々行おうという動きも盛んだ。

マクロな事例研究からは、自らの立ち位置を改めて見直し、より価値のある位置に布置し直そうという試みが可能である。そうして規定した自らの役割を使命にまで昇華していかなければ、間違いなく他機関の劣化コピーと堕してしまう。

周囲との相対的な位置を把握し、オンリーワンを志向していくためには、あまりに基本的なことだけれども、膨大な事例研究が不可欠だ。だが自らの存在意義を内外から強く問われることがなければ、過去の取り組みのみが価値基準となってしまう。新たに入ってきた人材もそんな狭い尺度でのみ活動を評価されれば、やる気を潰されてしまうだろう。

無料の入場料で運営できる。第一級の資料を「集めることが」できる。交通の便が良い。などなど、それぞれの館には他館にない特性があるはずだ。それらを特性として認識せずに、自らの来し方ばかり振り返って安穏としていれば、宝の持ち腐れ、税金の無駄遣いと揶揄されるのも当然だ。生き残りをかけて民間の指定管理者が必死にコンテンツの魅力を高め、集客に務めるような取り組みを批判できるだけの努力をしていかないといけない。

博物館は学校ではない。多くの場合、来館者はわざわざやって来るのだ。その労力に十二分に報いるだけの努力をしないといけない。暑い中、寒い中、騒ぐ子どもを引き連れてでもやってきてよかったなと、そう思ってもらわないといけない。自分たちの話を聞かないのは何事だとと言って怒鳴り散らし、自大的になれるのは、学校という牢獄の中だけだ。牢獄を出れば、実に高慢極まりない行為でしかない。そこに気づき、自らの生き残りをかけて、使命をかけて、学びと実践を繰り返していかないといけないのにね。